interview

金城 敏信

abouttoshinobu

風光明美でここにきて
本当に良かった

那覇市壺屋生まれ。
小学校高学年の頃より、父の仕事である陶芸に関わるようになり、当時は窯積みや※1インチャクナサー等の力仕事を主に手伝っていました。
※1インチャクナサー:削りカスを足で揉み再利用する方法

那覇市壺屋の当時住んでいた建物が立っていた場所。現在は駐車場。

那覇市壺屋の当時住んでいた建物が立っていた場所。
現在は駐車場。

幼いころの思い出として印象に残っていることを尋ねると、「親戚のおじさんの3輪トラックに乗せてもらい、名護の古我知まで土の採取に行ったこと、出発前に食べた沖縄そばの味が今でも忘れられない」とのことでした。
古我知では敏信が遊んでいる間に、父(敏徳)と親戚のおじさんが手で土を掘って集め、それを2トントラックがいっぱいになるまで積み込んでいたそうです。
敏徳たちは古我知だけではなく、うるま市の石川や恩納村の山田や喜瀬まで出向き、土を集め、1トン幾らという交渉を行い購入して、その土を用いて厨子甕などの陶芸品を作り、屋慶名やコザ、本部の商店に卸していたといいます。

敏信は中学にあがってからも、土日は父の仕事を手伝っており、時には窯出しを手伝うこともありました。

壺屋で使用されていた登窯。
新垣家の東ヌ窯(アガリヌカマ)。国指定文化財。

15歳の時、沖縄の本土復帰に伴い、壺屋での登窯が禁止になってからは、家族で真玉橋に引っ越しますが、特に生活は変わることがなく、敏信は変わらず父の仕事を手伝い続けます。

19歳で学校を卒業してからは、沖縄の運送会社で働くことになりましたが、22歳の時に埼玉への移住を決めます。
しかし、24歳になった年に沖縄が恋しくなり沖縄本島へ帰ることを決意し、それからは識名で生活するようになり、マンションの裏に一軒家を借り、そこを簡易的な工房として使用するようになりました。
父の敏徳からシーサー作りの手ほどきを受けつつ、作成し、様々なところに獅子面なども卸していましたが、その時は焼きはせずに、乾かした状態のものを渡していたそうです。

26歳の頃に転機が訪れ、同門の伯父の敏盛も在籍していた宮城陶房への入社が決まります。
そこでは敏徳から学んだ技術を生かし、シーサーを担当し、3年間作陶に励みました。

当時はバブル景気の真っただ中だったこともあり、会社の業績も良く、従業員も10名ほどいたそうです。
敏信は押し型を利用して1日2組くらいのペースでシーサーを作っていました。
ろくろ回しは伯父の敏盛が行い、女性たちは絵付けや流し込みの型の制作を担当しており、内地に卸す物だったので、大量生産が主流となっていたといいます。

敏信は28歳の時に、宮古島旅行をするのですが、その時に島のあまりの綺麗さに感銘を受け、このような場所で創作活動をしてみたい。と強く想うようになり、その気持ちは帰ってきてからも日々膨らむばかりでした。

そして29歳の時に一大決心をして、宮古島へ移住することにします。

宮古島与那覇の最初の自宅兼工房

宮古島与那覇の最初の自宅兼工房。

与那覇で工房を開き、シーサーをメインで作りましたが、当時はまだろくろが得意ではなかったため、弟の敏幸を呼び寄せ手伝ってもらうことにしました。
敏幸は次郎窯を辞める決断をして、敏信を手伝いに来てくれて、ふたりはその後4年間供に作陶に励むことになりました。
その間、敏信は年に1〜2回は手伝いに来てくれていた父の敏徳からろくろ回しや伝統的な技術を学びます。
ある日、敏幸が壺に牡丹文を描いてるのを見て、それを覚え、試行錯誤を繰り返した後に現在の牡丹紋を完成させることになるのでした。

「当時はまだ伊良部大橋など影も形もなかった時代だったが、敏幸と供に伊良部まで車を積んでフェリーで渡り、シーサーを売ったり、飛び込み営業も行ったことがある。花瓶や一輪挿し、カラカラ―、抱瓶などの伝統的な陶器がよく売れた時代だった」
また、「移住当初、周りに陶芸をやってる人もいないし、宮古島にはやちむんの歴史がなく、そもそも理解がなかったために、受け入れて貰えるようになるまでは相当の苦労をした。今でこそ、宮古島でも門中にシーサーを置く家が増えているが、来た当時はほぼ見当たらなかった」と当時を思い返して敏信は言います。

当時の敏信

宮古島が観光地として注目され始め、観光客が少しずつ増えるようになってからは景気も良くなり、1992年には高千穂に工房を移転することができました。

現在の金城陶芸

これが現在の金城陶芸です。
海が見える高台で、住宅地ではない静かな場所がいいという要望を全て叶える場所でした。
「移った当初は、家に通じる道が舗装されていないなど、不便な事も沢山あったが、風光明美でここにきて本当に良かった」とのことです。

現在は店舗での販売が主で、一箇所だけ委託で出品していますが、これからはインターネット販売にも力をいれていく予定だと言います。

「壺屋焼を知って欲しい、宮古島で作陶したい、その思いで移住してから36年。
今では『宮古島壺屋焼』と胸を張って言える。伝統を重んじながら進化を続ける、これからもそれを忘れず進んで行きたい」と語ってくれました。

現在の敏信

魚紋について

金城一門といえば、やはり魚紋ということで、最初は次郎窯の一員だった敏幸の描く魚紋を見て、手探りで描き始めたとのことです。
当初は魚に鱗や唐草を描くことで、特徴を出そうとしていたようですが、現在では表情豊かな「笑う魚」を描くために目の表現にこだわっているとのこと。

また、魚の口が鳥の嘴のように見えることがあったため、顔は短くして、胴体は少し太めにして……という工夫を重ねて、躍動感のある泳ぐ魚を表現できるようになったと言います。
描くスペースがどれくらいあるか、どの器に描くか。ということにより、描き分けることにしているそうです。

金城一門の魚紋

また、描く魚の種類も次郎魚だけではなく、工夫して4種類ほどに増やしており、
「今後は流水など、紅型の要素も取り入れてみたいと思っている」と敏信は語りました。

history

昭和31年
那覇市壺屋で出生
昭和50年
高等学校卒業と同時に、父 敏徳の元で修行
昭和57年
宮城陶房にて修行
昭和60年
宮城陶房にて修行
昭和62年
現代沖縄陶芸展シーサーの部でデザイン賞受賞
昭和63年
沖展入選
平成03年
新日美展(工芸部門)で特選と入選のダブル受賞
平成07年
第92回九州山口陶磁展で佐賀県商工会議所連合会賞受賞
平成09年
離島フェア特別賞受賞
平成15年
沖縄県伝統工芸士認定
平成19年
第104回九州山口陶磁展で日本経済新聞社賞受賞
金城陶芸

information

  • 金城陶芸
  • 〒906-0301
    沖縄県宮古島市下地町字川満803-1
  • Tel 0980-76-6694
  • 不定休