interview

金城 敏徳

aboutbintoku

沖縄県庁に鎮座する
シーサーの作者

那覇市壺屋生まれ。
幼少期は沖縄戦が激化する第二次世界大戦下だったこともあり、12歳までやんばる(沖縄 本島北部)に疎開する。
終戦後、焼け野原となり、何もなくなってしまった壺屋でしたが、戻ってきた陶工たちが復興のために尽力する姿は、いまも敏徳の瞼の裏に焼き付いているといいます。

終戦当時より、やちむん通り出口に凛とたたずむガジュマル。

終戦当時より、
やちむん通り出口に凛とたたずむガジュマル。

16歳を迎えたあたりから、父である敏雄の手伝いをするようになり、陶芸に携わり始めます。とは言っても、その頃はあくまでも雑用の粋を出ないものであり、本格的に陶芸を始め たのは26歳ぐらいのころからだったようです。
また、当時は陶芸だけで生活費を賄うことは難しく、港の荷物の上げ下ろしなどよそでアルバイトもしていました。

父の敏雄は沖縄陶器に所属しており、とても器用で発想力豊かな陶工でした。
お椀とお椀を合わせてオブジェを作ったり、当時あまり見かけることのなかった五寸皿に総柄で絵付けをしたり......と、その手腕を見学するために様々な陶工が工房を訪れ、敏雄の作品を真似ていたほどだったようです。
それくらい、卓越した技術を持っていたことを敏徳は覚えていると言います。

しかし、敏雄は若くして亡くなり、敏徳は30歳の時に独立し、金城陶器工場を立ち上げることになります。
当時は12〜13人の家族で暮らしており、家計を支えることがとても大変だったようです。

各陶工家の集い 金城敏徳宅
列右より、小橋川源慶、金城次郎、中列右より、高江洲友文、新垣栄三郎 金城敏徳、小橋川永昌、島袋常恵、前列右より小橋川清秀、小橋川永弘

焼く前の酒壺

焼く前の酒壺

当時の仕事内容は、内地(本州)向けに泡盛を入れる為の酒瓶の需要があった為、その制作が主で、敏徳と弟の敏盛がろくろを回し、女性陣が※1タックヮーサーを請け負い、一家総出で作陶をしたとのことです。
※1タックヮーサー:壺などに土でヤシの木や家を模したものを貼り付けていくこと

タックヮーサー

※1タックヮーサー

出来あがったものは登窯で焼き、酒器は瑞泉や瑞穂などの酒造メーカーに卸し、※2厨子甕 は屋慶名やコザ、本部の商店に卸しました。
※2厨子甕:沖縄の伝統的な骨壺。古くから沖縄では亡くなった人の身体を風化させ、その骨を洗って厨子甕に納骨してから埋葬するという文化だった。現代様式で火葬が主流になった今でも、納骨の際は厨子甕を使用する人たちも存在する。

2〜3か月に一度、窯を焼き商品が出来上がった時の売れ行きは好調で作成したものはほとんど卸していたほどでした。
そのため窯出し後は外食をしたり、欲しいものを買ったりということができるくらい生活に余裕ができたようです。
しかし、逆に窯焼き前になると途端に困窮し、米や生活必需品を購入するにもツケを頼むほどになります。そのように浮き沈みの激しい生活をしていても、不思議とみんな明るく笑顔が絶えなかったといいます。

タックヮーサー

兄弟の敏盛、敏勝、ほか家族たちとの作陶は42歳まで壺屋にて行われました。
沖縄の本土復帰に伴い、壺屋での登窯が禁止になって、敏徳一家は真玉橋へと引っ越すことになります。
叔父である次郎の工房は読谷へと移転しました。

敏徳は3年間、次郎とともに読谷で作陶に励みました。
しかし登窯ができたばかりであまり焼きが馴染んでいなく、自宅から遠いと言うことも重なり、読谷を出て自宅での作陶を始めることになります。

真玉橋で、まず古い家を工房として借り、ガス窯を買い、そこで酒壺を作り、酒屋に卸し始めました。
ただ、酒壺の売れ行きはあまり良くなく、先行きを不安に思っていた時、折よく宮城陶房に誘われたため、入社することになりました。
宮城陶房ではシーサーや花瓶、酒壺を作っており、色々なものを作れた敏徳はそこで重宝されます。

シーサーの制作現場。後ろの黑板に龍の構想をスケッチしている。

シーサーの制作現場。
後ろの黑板に龍の構想をスケッチしている。

バブル景気の真っただ中だったこともあり、作ったものが飛ぶように売れ、生活は順風満帆 のように思われましたが、どうしても沖縄で生活していくには、運転免許が必要になり、仕事を辞め教習所に通わざるを得ませんでした。

その後、識名に借りた一軒家を工房として使い、子の敏幸と敏信と供にコザ焼きに卸すためのシーサーを制作し始めます。
識名の工房には窯がなかったので、焼かずに生で卸していたが、その頃は非常に景気が良い時分でもあったので、よく売れたといいます。

2年ほどその生活をしたのち、沖縄陶業に入社し、そこでシーサーの制作をメインで行うことになります。 沖縄県庁に置かれるシーサーの制作も手掛け、五体中四体は敏徳の手によるものです。

しばらくすると沖縄陶業が沖縄本島中部から沖縄本島南部の親ケ原に移動するもそこから 1〜2年ほどは変わらずに勤め続けました。

這い獅子制作現場。

這い獅子制作現場。

子の敏幸が42歳で陶芸城を設立すると、そこに招かれ供に作陶に励むことに。
ホテルや体育館、公共施設などの大型施設に置かれるシーサーの制作にも携わり、島外からも高い評価を受けています。

現在の敏徳

history

昭和08年
壺屋にて出生
昭和24年
十六才に父敏雄の元で陶器の修行
昭和38年
坪谷にて独立
昭和62年
シーサー作りとして沖縄陶業で制作
平成03年〜05年
⻘森、北海道、千葉、岡山、森岡、沖縄県物産展にシーサー実演者として同行
平成03年
沖縄県工業連合会優秀技能者賞
平成04年
沖縄県庁シーサー、一メートル六十五センチを五体作る
平成10年
読谷村座喜味にて工場を設立
平成10年
浦添市役所にシーサー、一メートル七十センチ二体作る
  • 沖縄県庁 1m65cm(5体)
  • 安謝の卸し市場 1m55cm(1体)
  • サンマリーナホテル 1m40cm(1体)
  • 玉泉洞 1m40cm(2体)
  • 玉城村役場 1m65cm(2体)
  • 沖縄県工業技術センター 1m60cm(2体)
  • 浦添市役所 1m70cm(2体)
陶芸 城

information

  • 陶芸 城
  • 〒904-0301
    沖縄県読谷村字座喜味2678-3
  • Tel/Fax 958-5559