interview
金城 敏幸
abouttoshiyuki
技術は敏徳から受け継ぎ、
心構えは次郎から学んだ
那覇市壺屋生まれ。
小学生の頃から父敏徳の元で窯積みや雑用といった手伝いはしていましたが、※1インチャクナサーは3つ歳の離れた兄の敏信だけがやっており、敏幸は友達と遊びたい年ごろでもあったので、それに関しては捕まらないよう逃げ回っていたと言います。
※1インチャクナサー:削りカスを足で揉み再利用する方法

壺屋やちむん通りのすぐそば、
当時リヤカーで運んだ路地
幼い時の記憶で印象に残っているのは、自宅から100mくらい離れた登窯まで、※2厨子甕をリヤカーで運んでいる兄や父(敏徳)、叔父(敏盛、敏勝)の姿。
※2厨子甕:沖縄の伝統的な骨壺。古くから沖縄では亡くなった人の身体を風化させ、その骨を洗って厨子甕に納骨してから埋葬するという文化だった。現代様式で火葬が主流になった今でも、納骨の際は厨子甕を使用する人たちも存在する。
やちむん通りから登窯(東ヌ窯)まで向かう坂道。
その当時、敏幸の生家は瑞泉や瑞穂などの酒造メーカーに卸すための酒器や厨子甕を主に 制作しており、酒器は二合瓶や三合瓶がメインで、膨大な数を作りあげていました。
それらの酒器は、男性陣がろくろを回したものに、女性陣がヤシの木や家の形を象った模様を張り付けるという役割分担で制作されていたそうです。
敏幸は20歳の時に内地(本州)から沖縄に帰ってきましたが、特にやりたいこともなかった為、父の敏徳に勧められるまま宮城陶房でアルバイトをすることになりました。
仕事内容は型への流し込みであり、観光客向けのお土産を淡々と作るというものだったので、特に面白みもなく、更に当時は焼き物を一生の仕事にしようという情熱も持ち合わせていなかったこともあり、宮城陶房でのアルバイトは2年ほどで終了します。
その後はしばらく別の仕事をしていましたが、23歳の時に大叔父である金城次郎から誘いを受け、読谷の次郎窯に入ることになりました。

左より、2番目が金城次郎、3番目が敏幸
最初は抱瓶ばかり作っていたと言いますが、今後の為にと仕事終わりにろくろを回す練習は欠かさず、これが後の仕事へと繋がることになります。
24歳になった頃、沖縄タイムスが主催する次郎窯金城一門展が開かれ、敏幸も弟子として自分の作品を出展することができました。
その展覧会には中学時代の恩師も足を運んでおり、敏幸はそこで初めて恩師が金城次郎作品の愛好家ということを知り、彼から焼き物の素晴らしさを説かれたことに加え、自分の作品が売れたこと、実力を認められたのだ。という喜びも相まり、陶芸を本格的にやってみようという決意を固めたと言います。
25歳の頃には抱瓶を作りつつも、小花瓶などの作成も任され、ろくろを回す腕にも力が入る日々でした。
登窯へ薪をくべる作業
そのように仕事は順調な中、26歳の頃に兄の敏信に呼ばれて次郎窯をやめ宮古島へ行くことになります。その当時、まだろくろをうまく回すことができなかった敏信を手伝うためでした。
宮古島では与那覇で借りた古い一軒家を工房として使い、兄弟ふたりで作陶に向き合う日々を送ります。

宮古島にて、兄敏信
宮古島での作陶は4年間続き、30歳の節目の年に次郎窯へと戻り、38歳までの8年間、次郎の下でひたすら陶芸の道を究めるために努力を重ねました。
次郎窯は私語禁止などの決まりがあり、それなりに厳しく、部外者の工房への立入りも基本的には禁止されていたといいます。
唯一の例外があり、豆腐屋さんの出入りだけは許されていたそうです。次郎が大の豆腐好きだったから。という理由なのですが、このエピソードから次郎の素朴な人柄を感じることができるかもしれません。
また、次郎は自分に厳しい人であり、常に自らを律していたといいます。他者と接する時には相手がどんなに凄い肩書を持っていたとしても、常識がない人間なら毅然とした態度で接したそうです。
さて、次郎窯で仕事をする敏幸の中で、とある想いが膨らんでいきました。
それは、父の敏徳と一緒に仕事がしたいというもので、その気持ちは日を追うごとに強くなります。父の作るシーサーの素晴らしさと、ろくろの技術の見事さを間近で見て知っていた敏幸が、そう思うのも無理からぬことだと言えるでしょう。
いつしか、父と供に作陶をするというのが、敏幸の目標となっていたのです。
そんな折、次郎の引退が決まります。敏幸が38歳の頃でした。
このタイミングで敏幸は独立を決意し、店舗と工房の土地を探しながら、父敏徳の自宅工房で作陶に励むことになります。
現在の陶芸 城
独立から4年後、敏幸が42歳の時に現在の工房である陶芸城を設立し、その1年後には自らの工房に敏徳を招き、その後20年間供に作陶に励みました。

工房の前にたたずむ敏徳作のシーサー
焼き物の技術は敏徳から受け継ぎ、心構えは次郎から学んだ。と敏幸は語ってくれました。
魚紋について
金城一門の特徴ともいえる魚紋についてですが、敏幸は次郎から受け継いだ魚紋を描いているといいます。
「金城次郎の魚はもちろん、余白も大事にしていた。バランスを考え尻尾を下にしたり上にしたり、魚の形を常に決めていないのに、綺麗な線が流れていた」と敏幸は語ります。
ただ、敏幸も次郎が描いていたものをそっくり模倣しているわけではありません。
魚紋を描き始めた時は魚の口を閉めていたそうですが、とある現代陶芸展で知人と雑談している時に「あんたの魚は口を開けたら笑う」と言われたことから、現在の形に落ち着いたとのことです。

魚紋の色はゴスとコバルトとアメの3種類。
魚の周りには赤絵を使用しており、ここ10年ぐらいででてきたシタエの赤より、昔ながらのウワエの赤が好みなので、それを使っていると敏幸は語ってくれました。
陶歴
history
- 昭和34年
- 壺屋にて敏徳の次男として出生
- 昭和57年
- 金城次郎に弟子入り
- 昭和58年
- 金城次郎一門窯展に出品
- 昭和62年
- 沖展にて奨励賞
- 平成元年
- 第三回金城次郎一門窯展出品
- 平成05年
- 現代沖縄陶芸展(日用陶器の部)奨励賞
- 平成06年
- 現代沖縄陶芸展(日用陶器の部)技能賞
- 平成07年
- 現代沖縄陶芸展(日用陶器の部)奨励賞
- 平成09年
- 独立
- 平成09年
- 現代沖縄陶芸展(自由作品の部)奨励賞
- 平成10年
- 読谷村座喜味工場を設立
- 平成10年
- 現代沖縄陶芸展(日用陶器の部)奨励賞
- 平成12年
- 沖展にて奨励賞
- 平成12年
- 現代沖縄陶芸展(沖縄県知事賞金賞受賞)
- 平成19年
- 笠間市ギャラリー曜燿にて作陶展
- 平成22年
- 沖縄リウボウにて陶芸展
gallery

店舗情報
information
- 陶芸 城
- 〒904-0301
沖縄県読谷村字座喜味2678-3 - Tel/Fax 958-5559